ユメかウツツか

2017-9-20 UPDATE

日本文化は様式の文化だと言われます。
また日本の芸能や美術工芸は近代に至るまで、
リアリズムとは無縁だったとする見方もあります。
こうした分析は、必ずしも正確とは言えませんが、
現代を代表する日本文化であるとされる
アニメやマンガ、ゲームやJ-POPをあらためて見渡すと、
日本人が感じている「リアル」は、
いまも西洋のそれとは、どこかが違っていることも
また確かであるようです。

まずカタが伝えられる

花道や茶道、歌道や書道、そして武道などの技やノウハウが伝えられるとき、重視されるのはまず様式です。すなわち「カタ」の継承です。稀に「カタヤブリ」をする者があらわれ、それが独自の「カタ」として認められ、新しい流派が誕生することもあります。しかし「カタ」はあくまでも「カタ」。「カタイ=堅い」という言葉があるように、それは見えるもの、手触りのあるものではありながら、容れ物でしかありません。本当に新しい様式が生まれるためには、そこに「ココロ」や「タマシイ」が籠っていることが不可欠でした。心や魂はときに、一子相伝、つまり口伝によって密かに伝えられることになります。

「カタ」は、「型」や「形」や「方」であるとともに、「片」でもあります。片一方の「カタ」であり、不完全をあらわしているのです。「片=カタ」に対応するのが「マ」、すなわち「間」であり「真」ということになります。こちらは完全性をあらわします。平安時代初期には、完全な文字とされる中国伝来の漢字が「マナ(真名)」、不完全でかりそめの文字が「カナ(仮名)」と呼ばれていました。

「カタ」に魂や美が宿った状態が「カタチ」です。「チ」は方向性をあらわし、美を意味すると同時に、「イノチ(命)」や「オロチ(蛇)」の「チ」と同様に、魂をあらわしています。ちなみに「イノチ」の「イ」は「息」を意味していました。蛇も脱皮や冬眠をすることにより、縄文以来、魂の再生を象徴する生き物であると考えられてきました。ともかく芸能や工芸技術の伝承においては、まず「カタ」が伝えられ、その「カタ」にこそ魂が宿ると考えられてきたわけです。

江戸時代には様々な芸能のマニュアル本が刊行された。図は『古田流生花独稽古』より。

江戸時代には様々な芸能のマニュアル本が刊行された。図は『古田流生花独稽古』より。

見栄を切るゴジラ

それをよくあらわしているのが、能や歌舞伎などの舞台芸能かもしれません。能舞台は極度に様式化され、演目によって大道具が交換されることもありません。また最も意志や感情を表現できるはずの人間の生の表情は消され、多くの場合、顔は面によって覆われます。より大衆化が進んだ芸能である歌舞伎もまた、舞台装置は平板であり、喜怒哀楽の表現も様式化されています。そのあたりは西洋のオペラなどと好対照でしょう。また歌舞伎では、観客がその演目の「世界」、つまりそこで繰り広げられる物語が、忠臣蔵や曾我兄弟や源平などのどの世界に属するものなのかを共有していることが前提となります。「世界」を了解してさえいれば、平板な舞台装置や様式化された表現を、リアルなものとして感じることができるのです。そこではつくり込んだ大道具や生々しい感情表現は、むしろ邪魔になっているかのようでもあります。

兵庫県篠山市、春日神社の能舞台。能は演目にかかわらず、本舞台正面奥の「鏡板(かがみいた)」に描かれた老松の前で演じられる。

兵庫県篠山市、春日神社の能舞台。能は演目にかかわらず、本舞台正面奥の「鏡板(かがみいた)」に描かれた老松の前で演じられる。

それは現代においても、日本文化の様々な表現行為の中に受け継がれているようです。たとえばそれは日本でつくられたゴジラ映画とハリウッド製ゴジラを比較することで、際立つかもしれません。ハリウッドのゴジラでは、設定も造型も背景も、現実的=写実的であることが徹底的に追求されています。まるでドキュメンタリー映画を目指しているかのようです。一方、日本のゴジラは、ゴジラが着ぐるみであり、都市がミニチュアセットであることが一目瞭然であっても、それが「ゴジラの世界」であることを了解しさえすれば、それらがつくりものであることは、何の問題もなくなるのです。日本のゴジラはときおり、歌舞伎の見栄を切るような「演技」さえしていますが、それこそが日本ゴジラのリアリティでもあるのです。近年話題になった「シン・ゴジラ」では、CGゴジラの動きに狂言師の動きが取り入れられていました。能や狂言の様式化された摺り足の動きの中にも、日本的なリアリズムが宿っているのかもしれません。能の多くの主人公もまた、ゴジラのように「異界」からやって来た者たち、神霊や亡魂でした。

一陽斎豊国「助六 揚巻の助六・髭の意休」。面をつけない歌舞伎でも、その表情は様式化されている。

一陽斎豊国「助六 揚巻の助六・髭の意休」。面をつけない歌舞伎でも、その表情は様式化されている。

日本アニメの自然描写、とりわけ光や水の描写は、西洋的なリアリズムの捉え方から見ても、徹底したリアルが追求されています。動植物も写実的に描き出されることが多いようです。ところが人間、とりわけその表情は、一部の例外はあるものの、平面的な旧来のマンガの表現が踏襲されています。これもまたディズニーアニメのような人物の三次元的表現と見事なまでに対照的です。現代日本のアニメの人物表現は、能面や浮世絵の人物表現の伝統、どこかで継承しているのかもしれません。日本人が感じる「リアル」はやはり、西洋のそれとは大きく異なっているようです。

日本のハイパーリアリズムと中世

ただし日本文化の歴史においても、鎌倉時代を中心にした肖像画や仏像などのように、写実に近いリアリズム表現が展開されたことがあります。江戸後期には、主に見世物小屋で展示公開された生人形(いきにんぎょう)のようなスーパーリアリズムとさえ呼びたくなるほどの「本物そっくり」の人形がつくられています。もっとも生人形の方は、あくまでも見世物であったように、当時の人々にとっても、あまり趣味のよいものとは認められていなかったようです。「本物そっくり」であることは、近世の人々にとっては「野暮」であると考えられていたのです。

一方、鎌倉のリアリズム表現は、日本における視覚表現の一つのピークであると言ってもいいかもしれません。鎌倉から室町時代にかけては、おそらく日本文化全体が大きな頂点を迎えた時代でした。現代の名工とされる職人たちの多くが、刀剣や寺社建築などで最も優れた「作品」を残したのが、この時代であると口を揃えます。鎌倉・室町期、すなわち中世が、日本文化の大成期となった背景には、鎌倉幕府の成立に象徴されるような、東国を含むかたちでの交通網の発達があり、貨幣経済の一定の定着がありました。物資や貨幣の流通とともに、人と技術が交流し、錬磨されたわけです。

現在に至るまで日本文化の代表とされる、茶の湯、生け花、能などもこの時期に完成期を迎えています。しかし完成期は同時に停滞期、あるいは衰退期の始まりでもあります。時代の前後はありますが、いずれの芸能もまもなく茶道や花道などの「道」として「家」が「カタ=様式」を伝えるものとなってゆきます。後の家元制度の原型もまた、中世、あるいは中世末期につくられました。平安時代にはすでに「書道」や「歌道」が誕生していましたが、平安末までは多くの稔り多い創意工夫を生みつつも、中世になるとやはり「家」よってそれらの技が墨守され、「カタ」が伝えられてゆくようになります。

「野見宿禰と当麻蹶速」の生人形。安本亀八による明治期の作品。

「野見宿禰と当麻蹶速」の生人形。安本亀八による明治期の作品。

後鳥羽天皇像。鎌倉から南北朝期に描かれたこのような写実的な肖像画は「似絵(にせえ)」と呼ばれる。

後鳥羽天皇像。鎌倉から南北朝期に描かれたこのような写実的な肖像画は「似絵(にせえ)」と呼ばれる。

夢とうつつのリアリズム

「夢うつつ」という言い方があります。「夢」は現代的に「ヴァーチャル」と言い換えてもいいかもしれません。「うつつ」は「現」、つまり現実であり「リアル」な世界のことでした。「夢うつつ」という言葉には本来、幻想と現実を往来するというニュアンスがあります。しかし、現実を意味する「うつつ」もまた「ウツ=空」の世界、「うつろう」世界であり、現実とはいえども、さほど確かなものではないというのが、日本人の古来の捉え方でした。浅い眠りの状態をあらわす「うつらうつら」という表現とあいまって、「夢うつつ」は夢と現実の対比ではなく、何もかもがぼんやりとした状態をあらわすようになりました。

うつろいの感覚は、四季のある日本の風土や地震や台風などの自然災害の多い環境条件とも深く結びついたものですが、世界が刻々と変化するということだけからは、現実が頼りないものだとする感覚は生まれなかったはずです。古代ギリシアにも「万物流転」の哲学はありましたが、それは日本のように現(うつつ)と夢を一体として捉え、現実もまた頼りないものだとするような思想ではありません。

日本ならではの「リアリズム」をより的確に表現する言葉があります。「はかなし」です。平安後期につくられた有名な「いろは歌」である「色は匂へど散りぬるをわが世誰そ常ならむ有為の奥山今日こえて浅き夢みし酔ひもせす」に、まさにこの「はかなし」の感覚をうかがうことができます。「はかなし」の感覚には、仏教の無常感が深く結びついています。すでに聖徳太子が「世間無常」ということを強調していました。平安時代を通じてこの仏教の無常と「はかなし」の感覚が一体となり、やがては和泉式部たちによって「はかなさ」の美学さえ生み出されました。

「はか」とはもともと、田に稲を植えたり収穫したりする際の仕事量をあらわしていました。「はかどる」「はかがいく」「はかばかしい」の「はか」でもあります。「はかなし」は、その「はか」がないこと、つまり量や実態がないということです。この「はか」が動詞となった言葉が「はかる」です。漢字では、計量を意味する「計る」「測る」「量る」であり、ものごとを論じ調整することをあらわす「諮る」「忖る」「衡る」であり、企てをあらわす「図る」「策る」「謀る」でもあるように、多様な意味を孕んだ言葉でした。死者を埋葬する「墓(はか)」ともどこかで繋がっている言葉かもしれません。

「はかなし」は、計量や調整や企画を超えたあてどもない現実のことです。無常観とともに「はかなし」の感覚が広く定着するにあたっては、『平家物語』冒頭の一節「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」が大きな役割を果たしました。『平家物語』の歌謡「平曲」は、鎌倉中期に成立し、当時としては爆発的なヒット曲となります。この平曲はまた、同時期に成立した他の芸能と同様に、それまでの伝統を集大成したもので、邦楽の大きなピークをなすものでもあります。

琵琶法師。「平曲」は、盲目の琵琶法師によって琵琶を弾きながら語られた。江戸時代につくられた「職人尽歌合」より。

琵琶法師。「平曲」は、盲目の琵琶法師によって琵琶を弾きながら語られた。江戸時代につくられた「職人尽歌合」より。

「はかる」の先にあるもの

こうして日本人の感覚に深く根を下ろした「はかなし」は、「うつろい」の感覚などとともに、その後の「わび」や「さび」の美意識を生み出します。「わび」は「詫びる」や「わびしい」、「さび」は「錆」や「さびしい」と同根の言葉です。そこでは応仁の乱による京文化の破壊や伝統の断絶も、大きな影響を与えていたことでしょう。人の手によって生み出された完璧と思える美も、結局のところ「はかなく」「うつろう」ものだったのです。そして時を経た書画や、職人の意図を超えて水や炎によって生み出される陶器などの「景色」などに、はかりがたい美=「はかない美」が見出されることになったわけです。

それでも、日本の芸能が「カタ」を重視し、その継承にこだわり続けたのは、「はかない」現実にあって、かりそめにも「はかる」ことのできる「カタ」を目当てにするしかなかったからなのかもしれません。「はかなく」「うつろう」現実にあって、「カタ」はかろうじて「はか=実態」を感じられるものだったのでしょう。言い換えれば、「はかる」を極限までつきつめた先、つまり「はかり切った」先にこそ、「はかない=はかり切れない」リアリティがあらわれると考えていたのです。近代合理主義のもとでは、現実とは「はかる」ことのできるものの総体であり、日本では、その先にある「はかない」もの、「はかりしれない」ものにリアリティを求めていたようです。万葉集から現代アニメまで、能楽からゴジラ映画まで、日本人にとってのリアリズムは、そのようなものであり続けているのかもしれません。

歌川芳虎「勘略夢の枕」。夢は江戸時代の作家や浮世絵師が好んで描いたモチーフでもあった。

歌川芳虎「勘略夢の枕」。夢は江戸時代の作家や浮世絵師が好んで描いたモチーフでもあった。